日本被団協のノーベル平和賞受賞の意義を考える
長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)見解
2024年12月10日
オスロの現地時間で本日午後、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞した。核兵器廃絶をその名に冠した被爆地長崎にある研究機関として、RECNAは日本被団協に心からの祝意をお伝えしたい。「レクナの目」では個人名で考えを示すのは異例のことだが、この歴史的瞬間を大切にするためにとくに、核兵器廃絶運動出身の研究者である河合公明教授と中村桂子准教授が受賞の意義を綴ることにした。
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「このノーベル平和賞は皆さんと一緒に受賞したものです。」発表から数日後、和田征子さん(日本被団協事務局次長)の言葉が私の胸を打った。被爆者は、想像を超える苦しみと悲しみを抱えながら、「私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」(日本被団協結成宣言)との決意で立ち上がった。証言活動は国際的な連帯を生み出し、2017年7月には核兵器禁止条約の採択への道を切り開いた。その場に立ち合い、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)へのノーベル平和賞授賞式で同年12月にオスロを訪れたことは、私にとって生涯忘れえない出来事であった。
「キノコ雲の下で何が起きていたのか」を生涯かけて語り続けてきた被爆者の活動の意義は、核兵器廃絶運動にとどまらない。戦争は国際法で禁止され、一般市民は保護の対象とされているにもかかわらず、今もウクライナや中東では戦争で多くの一般市民が犠牲となっている。こうした状況を前に、被爆者が問いかけるのは、「戦争で苦しむのは誰か」という点である。「攻撃する側」の論理ではなく、「攻撃される側」の現実を考えることを求めているのだ。力と不信に基づく安全保障の限界を超え、共感と連帯に基づく安全保障という選択肢へ進むよう、常に問いかけている。
被爆者の証言活動がもつ「伝承」の力は、攻撃する側の論理を問い直し、核兵器も戦争もない世界を建設するための原動力になる。そのエネルギーを受け継ぎ、共感と連帯に基づく安全保障について長崎から発信することが、核兵器廃絶運動を経てアカデミアに身を置く私の使命である。それこそが、私にとっての「伝承」である。被爆者から継承するメッセージを、今度は私たちが主体者としてどのように国内外に「伝承」していくか。このことを、被爆80年を迎える長崎の地で皆さんと一緒に考えていきたい。(河合公明)
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ノーベル平和委員会が「日本被団協」の名を告げた瞬間、すでに鬼籍に入られた方を含む、あの方この方の顔が次々と脳裏に浮かんだ。私が今の仕事をする上で、大きな影響を受けた被爆者の方々だ。彼ら彼女らの存在がなければ、私の仕事への向き合い方はまったく違うものになっていただろう。そして私に限らず、核兵器廃絶に取り組む研究者、実務家、NGO関係者の中に、被爆者との出会いが自分の人生を変えた、と振り返る者はけっして少なくない。
世界中の人々の心を動かし、行動へと鼓舞してきたのは、被爆者が語ってきた「あの日」の惨状だけではない。言葉通り身を削りながら、「他の誰にも同じ思いをさせたくない」と訴えてきた被爆者の生き様が示す、深い思想や哲学に共鳴してきたからに他ならない。
日本被団協「結成宣言」が出されたのは、被爆からわずか11年の1956年8月だった。政府からの公的な支援は存在せず、多くの被爆者が心身への深い傷、生活苦、差別や偏見にあえいでいた。被爆者が残した数々の証言には、自らの運命を嘆き、あの日死んでしまった方たちを羨みさえするといった、壮絶な心情が吐露されている。しかしそうした苦しみと葛藤の中でも、被爆者は、「もうだまっておれないでてをつないで立ち上がろう」(結成宣言)と動き出したのである。
それから68年余――被爆者が体現してきたのは、暴力と憎しみの連鎖を断ち切る人間の強さであった。もちろんそれは簡単なことではない。しかし、困難な時代にあっても、被爆者は希望を捨てず、他者の苦しみに共感し、公共善の実現に向けて対話を行うことをあきらめなかった。それは不信と暴力が跋扈する今の世界の対極にあるものであり、私たちにそれを乗り越える力があることを思い起こさせる。血で血を洗うような争いが続く今だからこそ、私たちはあらためて被爆者の歩みから学ぶ必要がある。(中村桂子)
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被爆者の歩みは、共感と連帯を基盤とした新たな安全保障の構築への道筋をさし示している。この道筋を継承し、さらに国内外で伝承していくことは、次世代の私たちが担うべき責任である。日本被団協のノーベル平和賞受賞は、その責任について考える機会を与えている。