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発言年月日 発言者 生年、被爆地 内容 キーワード
1981/ ヨハネ・パウロⅡ世 世界宗教であるカトリックの最高位の聖職者。1920年生まれ。 戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。
 もはや切っても切れない対をなしている二つの町、日本の二つの町、広島と長崎は、〈人間は信じられないほどの破壊ができる〉ということの証として、存在する悲運を担った、世界に類のない町です。
 この二つの町は、〈戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にする〉と、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめることでしょう。
歴代のローマ教皇として初めて日本を訪れたヨハネ・パウロⅡ世が広島市の平和記念公園で行った「平和アピール」からの抜粋。この文章の後には、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」という言葉が繰り返し登場する。このアピールは、カトリック教界にとどまらず、日本全体の核問題を含む戦争に対する姿勢に大きなインパクトを与えることとなった。『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社編、主婦の友社、1981年所収。
1981/ ヨハネ・パウロⅡ世 世界宗教であるカトリックの最高位の聖職者。1920年生まれ。 皆さんがきょうまで耐えてこられた苦悩は、この地球に住むすべての人の心の痛みとなっています。皆さんの生きざまそのものが、すべての善意の人に向けられた最も説得力のあるアピール――戦争反対、平和推進のため最も説得力のあるアピールなのです。 長崎の地を踏んだローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世が恵の丘長崎原爆ホームで述べたメッセージからの抜粋。このメッセージは、長崎のカトリック教界に大きな影響を与え、この言葉をきっかけに、被爆したカトリック教徒は原爆被害を語り始めた。『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社編、主婦の友社、1981年所収。
1985/ 山中高等女学校同窓生 今から四十年前に在籍した学校は、この世に確かにあったのである。その証拠に、そこで共に学び、共に励み、共に動員に行き、共に傷つき、 共に苦しんで死んでいった多くの友がいる。 山中高等女学校の『追悼記』からの抜粋。原爆が投下された広島市では、被爆後1カ月ほど経った9月から10月にかけて、多くの学校が授業を再開していった。その中にあって、原爆の痛手から立ち直ることなく、廃校となった学校がある。山中高等女学校はその4校のうちの1校だった。 「原爆さえなかったら…」それは、母校を失った卒業生に共通の思いではなかっただろうか。 広島女子高等師範学校付属山中高等女学校原爆死没者追悼文集編集委員会編、『追悼記』1985年所収。
1969/ 秋月辰一朗 長崎市で被爆。医師。1916年生まれ。 私たち長崎の人々は長崎の体験を余り語らなさすぎるのである。「こんな体験はありふれた小さなことだ。いや誰でも知っている。いや科学的でない」「表現がまずい」といって語るに臆病である。
 私たちは大いに語らねばならぬ。今まで語らなさすぎた。語ることは私たちの義務である。
『長崎の証言』創刊号に収録された秋月辰一郎のことば。「長崎証言の会(初期はながさきの証言刊行委員会)」は長年に亘り、長崎の独自の証言運動をけん引し、2014年の今日に至るまで数多くの被爆体験を収集・出版している。1969年発行のこの創刊号は、その証言運動の嚆矢となった。
『長崎の証言――戦争と原爆の体験を見つめ証言する長崎の声』「長崎の証言」刊行委員会編、1969年所収。
※「長崎証言の会」発行の雑誌タイトルおよび編者は、以下のように変遷している。
・1969~78年『長崎の証言』(長崎の証言刊行委員会編)
・1978~81年『季刊長崎の証言』(長崎の証言の会編)
・1982~87年『ヒロシマ・ナガサキの証言』(広島の証言の会と共編)
・1987~『証言―ヒロシマ・ナガサキの声』(広島の証言の会と共編)
1956/ 渡辺千恵子 長崎市で被爆。被爆者運動に参加。1928年生まれ。 原爆犠牲者はもうわたしたちだけでたくさんです。原爆はわたしの身体を生まれもつかぬかたわ(原文ママ)にしてしまいましたが、わたしの心までも傷つけることはできませんでした。(中略)
 世界の皆さま、原水爆をどうかみんなの力でやめさせてください。そしてわたしたちがほんとうに心から、生きていてよかったという日が一日もはやく実現できますよう、お願いいたします。
長崎で行われた第二回原水爆禁止世界大会の開会総会で、長崎の被爆者を代表して訴えた渡辺千恵子の発言の一部。原爆青年乙女の会に所属し、原水禁運動に尽力した渡辺千恵子の最初の原爆被害を訴える公式な発言でもある。
 壇上に母に抱えられて立った渡辺の姿と言葉に、参加者は感銘を受け、長崎における原水禁運動は盛り上がりを見せていく。原水禁運動は、被爆者が自分自身の体験を徐々に外に向かって語り始めるきっかけの一つとなった。
『長崎に生きる』渡辺千恵子、1973年、新日本出版社所収。
1969/ 秋月辰一朗 長崎市で被爆。医師。1916年生まれ。 妹を葬ると、翌日は姉の髪の毛が抜ける。「死んでいった妹と全く同じ症状が出た。自分もきっと死ぬんだ」と妹の死体の上で泣いている女もいる。その姿を父親は悲しそうに見ている。自分も悪心、嘔吐がある。自分もやがて死ぬのだ――こうした絶望的な日々が、このあと四十日間も続いたのである。
 私はこれを「死の同心円、魔の同心円」と心の中で名づけた。今日は、あの家の線までの人が死んだ。翌日になると、その家より、百メートル上の人が死にそうになる。その円周は、次第に広がってゆく。
原子爆弾に多くの医療関係者も傷つき、倒れる中で、爆心地近くに踏みとどまって患者の治療を続けた秋月辰一朗医師の手記からの抜粋。医師の目から、原子爆弾による放射線被害の恐ろしさを伝えることばである。
『長崎原爆記』、秋月辰一朗、1966年、弘文堂所収。
1969/ 鎌田定夫 証言運動に参加。1929年生まれ。 朝鮮人や中国人の被爆者に関する記事や資料、在日朝鮮人による記録等が、今回は収録の運びにまで至らなかったことです。これは「長崎の証言」発掘にあたって残された重要な課題の一つとなるでしょう。 『長崎の証言』創刊号の編集後記より。1960年代後半以降、長崎における被爆体験証言運動が始まったが、その当初から、外国人被爆者への眼差しがあったことが分かる。日本の侵略による外国の戦争被害が広く一般で認知されるようになるのは1970年代以降であるが、長崎の証言運動はそれまで被爆者と認識されることのなかった長崎の外国人被爆者の被爆体験を掘り起こす運動の先駆けともなった。
『長崎の証言――戦争と原爆の体験を見つめ証言する長崎の声』「長崎の証言」刊行委員会編、1969年所収。
1972/5/ 栗原貞子 広島で被爆。詩人。1913年生まれ。  <ヒロシマ>というとき
 <ああヒロシマ>と
 やさしくこたえてくれるだろうか
 <ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>
 <ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
 ・・・
 わたしたちは
 わたしたちの汚れた手を
 きよめねばならない
注:原爆被害者もまた加害者の側面があることを見つめざるを得ないベトナム戦争期の被爆者の鋭い感性の言葉として、大きな影響をあたえた。掲載したものは32行の詩の全文である。栗原貞子詩集「ヒロシマ・未來風景」(栗原貞子著、詩集刊行の会、1974年3月30日)、詩集「ヒロシマというとき」(栗原貞子著、三一書房、1976年3月16日)などに所収。 ベトナム 加害 南京虐殺 ヒロシマ
1975/8/ 秋月辰一郎 長崎で被爆。医師。1916年生まれ。 わたしは、「核兵器による戦争の抑止力でなく、ヒロシマ・ナガサキの人びとの叫びが核戦争を抑止している。〝証言〟という極めて素朴な、弱々しいような声が、核戦争の抑止力である」と何度か訴えたことがある。ベトナムの解放に今それを実感しているのである。 核兵器の使用が危惧され続けたベトナム戦争が終結した時期における、被爆者の証言の意義を確認した文章である。「ヒロシマ・ナガサキ30年の想い」の一節。「広島・長崎30年の証言(上)」(広島・長崎証言の会編、未来社、1975年8月6日)所収。 核戦争の抑止 ベトナム解放
1975/8/ 秋月辰一郎 長崎で被爆。医師。1916年生まれ。  原爆記録映画が原爆後二十二年にして初めて上映された。その記録映画は原爆後二十日頃からの長崎、広島の物凄い破壊状況をつぶさに撮影した貴重なものであった。
 それには人権という理由で人間の治療されている姿が抹殺されていた。
 「何だ。人間がいない。」累々たる瓦と破壊物の砂漠もその破壊力のすさまじさよりも、むしろ単調すぎて退屈でさえあった。
 「こんなのは原爆映画ではない。人間のいない被爆長崎、広島というものはない」という叫びがおこった。
 その後になって、その記録映画に人間の治療の場面がつけ加えられた。背中一面に火傷して黒くあるいは白く化膿した負傷者、頭髪の抜けた哀れな放射能症の人、しかし、私はそれらを見ても、やはり「人間がいない」と感じた。
 原爆における人間というのは、そのような個人や単数ではない。もちろん背中の全面火傷の少年、脚の大きな傷の腐った人、それらは原爆の激しさ、残酷さを物語っている。
 しかし私たちが言う原爆の悲惨というのは、全面火傷、腐敗した傷の人びと、あるいはそれ以上の人びとの群れである。それらの群れが地に充ち、川を埋めたのが原爆である。
 ・・・
 各大学から調査団が来た時、記録映画の始まった時はこの七万のうち、九〇%は死亡していたのである。
 爆心より五〇〇メートルの人びとは即時に、一、〇〇〇メートル以内の人びとは一、二日に焼け、つぶれて死んでしまった。これらの人びとの上にかんかんと夏の日が照り、蠅がたかり、やがては雨に流される。
 私はこの暗黒の日々のあとの時期について、どんな記録が出ようと、それは本当の原爆でないと叫ぶつもりである。原爆後の一週間、爆心地から一、〇〇〇メートル以内は科学的記録や調査の届かない所にある。
 被爆者の証言の意味はそれである。
アーカイブ映像が伝える原子野や、被爆後の写真映像が伝え得ない「暗黒の日々」の期間こそが原爆であるとの視点を述べている。証言の替え難い役割をお手本をもって示している意義がある。「ナガサキ・歴史の暗点」からの抜粋。「広島・長崎30年の証言(上)」(広島・長崎証言の会編、未来社、1975年8月6日)所収。 暗黒の日 人間がいない 記録映画 科学的記録
1982/6/24 山口仙二 長崎で被爆。平和運動家。1930年生まれ。  私の顔や手をよく見てください。よく見てください。世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、 子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ1人たりとも許してはならないのであります。 核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約してくださるよう心からお願いをいたします。 私ども被爆者は訴えます。命のある限り私は訴え続けます。ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ、ありがとうございました。 第2回国際連合軍縮特別総会の全体集会において、NGO代表として演説をした時の締めくくりの言葉。「ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ」という言葉は、被爆者の訴えとして繰り返し引用されてきた。中学の社会科の教材にも取り上げられた。この部分は長崎放送のHP「被爆者の証言:第7回」所収。
http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/peace/voices/no07.php
「朝日新聞」電子版(2014年1月22日)によれば、演説の全文の草稿は初稿から第4稿まで4種類が日本被団協の事務所に保管されている。
http://www.asahi.com/articles/ASG1H5332G1HPTIL01V.html
ノーモアヒロシマ 国連 ノーモアウォー ノーモアヒバクシャ
1955/ 福田須磨子 長崎で被爆。詩人、作家。1922年生まれ。 なにもかも いやになりました
原子野に屹立する巨大な平和像
それはいい それはいいけど
そのお金で なんとかならなかったかしら
“石の像は食えぬし、腹のたしにならぬ”
さもしいと言ってくださいますな
原爆後十年をぎりぎりに生きる
被災者のいつわらぬ心境です

ああ 今年の私には気力がないのです
平和!平和!もうききあきました
いくらどなって叫んだとて
深い空に消えてしまうような頼りなさ
何等の反応すら見出せぬ焦燥に
すっかり疲れてしまいました
ごらん 原子砲がそこに届いている

何もかもいやになりました
皆が騒げば騒ぐほど心は虚しい
今までは 焼け死んだ父さん母さん姉さんが
むごたらしくって可哀想で泣いてばかりいたけど
今では幸福かも知れないと思う
生きる不安と苦しさと
そんなこと知らないだけでも……

ああ こんなじゃないけないと
自分を鞭打つのだけど

修学旅行生を対象とするスタディーツアーを、長崎では「被爆遺構めぐり」とよぶ。この担い手である被爆者のひとりは、平和祈念像のまえで福田の詩を朗読する。当時の被爆者のおかれた心境と、長崎の社会状況を想像するためである。原爆被災という極限状況の体験を表象する詩や文学を読むことは、被爆者のことばの理解を深めるだろう。同時に、現代社会をいきる「わたし」と、過去の出来事の関係を想像する手がかりともなるだろう。
(福田須磨子「ひとりごと」。長崎の証言双書1『原子野に生きる』。初出は朝日新聞への投稿。)
平和教育 創作 心境
1970/ 谷口稜曄 長崎で被爆。 25年前の8月9日、私は住吉町の路上に赤い自転車を走らせていた。電報配達員になって二年め、16歳だった。運命の一瞬、目のくらむような閃光、左後方からのはげしい爆風で、私は三メートル先の路上にたたきつけられ、自転車は雨のようにまがっていた。不思議に痛みも出血もなかった。300メートル先の兵器工場の地下壕にたどりついた。そのとたん、ひきつるような痛みが背中から全身をおそった。
 それから三晩、地下壕で呻きつづけ、四日めに救護隊に救出されて諫早の国民学校に運ばれ、更に数日して長与国民学校に送られた。どこでも新聞紙の灰と油をこねあわせたものを薬の代わりにぬってもらう程度の治療だった。1か月後には更に新興善校の救護所に廻された。アメリカ軍が俯伏せになっている私を撮影していったのはその頃であったろうか。そしてその年の11月に、大村の病院に移されたのだった。(中略)
 忘却が、新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れる。私は、かつての自分をもそのひとコマに含めたカラーの原爆映画をみて、当時の苦痛と戦争に対する憎しみが自分の体の中によみがえり、拡がってくるのを覚える。私はモルモットではない。もちろん見せ物ではない。だが、私の姿を見てしまったあたなは、どうか目をそむけないで、もう一度よく見てほしい。私は奇跡的に生きのびたが、今なお私たちの全身には原爆の呪うべき爪痕がある。私は、じっと私たちを見つめるあたなの目のきびしさ、あたたかさを信じたい。
 だからこそ、あたたたちの視線を受けとめつつ、私はもう一度証言を試みたい。映画は、私たちが体験してきた生き地獄の何万分の一、いや何十万分の一ほども再現していない。
このことばが収録される『長崎の証言 1970』の表紙には、アメリカ軍により撮影された背中に火傷をおった谷口の写真が掲載されている。「私は、じっと私たちを見つめるあなたの目のきびしさ、あたたかさを信じたい」ということばには、被爆後、25年を生き抜いた生存者が、他者の視線をうけとめ、心理的な葛藤をへて、被爆者として体験を社会に語りだす心境が表現されている。
(『長崎の証言 1970』)
爆心地 アメリカ 映画
1972/ 李奇相 長崎で被爆。 わたしの仲間には朝鮮人被爆者が二、三十人いますが、国民健康保険にはいったうえで特別被爆手帳をもっておれば、無料治療は受けられます。だが、それ以外に何かの手当や給付をもらっている者は全くありません。
 この点では、ほとんど日本政府や自治体の保障がなく、はたしてこれで日本政府はわれわれの強制徴用や強制連行にたいする責任をとっていることになるのか、大いに疑問があります。これは韓国に引きあげて帰った同胞たちのばあい、もっとも悲劇的なのです。およそ二万人ほどの被爆者たちが、ほとんど何の援護も受けることなく、原爆後遺症や生活苦にくるしんでいるといわれています。
 このあいだ密航して逮捕されたという広島での被爆者孫振斗さんの事件なども、このようなきびしい現実をあらわしています。わたしたちは思想や信条をこえて、これらの同胞の要求が正しく満たされるよう願ってやみません。
 広島、長崎で被爆を体験した人びとのナショナリティは多様である。広島で被爆した孫振斗さんは、1970年12月、原爆症の治療を要求して佐賀県呼子に入国した。この出来事を発端として生じた「孫振斗裁判」は、「在外被爆者」の存在が社会的に認識されるきっかけとなった。「ヒロシマ・ナガサキ」という記号は、反核運動を推進すると同時に、被爆ナショナリズムを形成する。核兵器廃絶と被爆者のことばの関係を考えるとき、戦争の記憶とナショナリズムの関係を視野にいれて、ことばが表象する社会的・歴史的な空間を想像することが重要である。(『長崎の証言 1972』) ナショナリズム 記憶 在外被爆者
2013/ 廣瀬方人 長崎市で被爆。1930年生まれ。 彼(山口仙二さん)が(1956年の第2回)原水禁大会以後、組織活動に熱意を持ったのには理由がある。首に大きなケロイドを抱え、口もゆがんでまともには水も飲むことが出来なかった。長崎工業高校を卒業後、希望していた三菱造船にも入社できなかった。戦後十年を過ぎたころからようやく明らかにされ始めた放射能の影響で、いつ倒れるかわからないという不安もあった。(中略)原水禁運動が分裂した際に、山口が「どっちも行こうや」と呼びかけたが印象的だった。その一言で長崎被災協は分裂を免れた。彼のおおらかさ、柔軟さが長崎被災協の継続を支えたと私は思っている。(丸括弧内は引用者の補足) 山口仙二のように、世界的に影響力をもつ被爆者のことばを理解するためには、その「ことば」が発せられた社会状況に想像力をはたらかせることが大切である。山口と親交が深く、長崎の被爆者である廣瀬方人は、山口が周囲の被爆者たちから親しみをこめて「仙ちゃん」と呼ばれていたとふりかえる。山口の性格の「おおらかさ」を回想し、「ノーモア・ヒバクシャ」を力強く訴える山口は「連帯」の必要性を認識していたと語る。このように、被爆者により、被爆者のことばが継承されている現実に注目することも、被爆者のことばを理解する手がかりとなる。
(『証言2013 ヒロシマ・ナガサキの声
継承 原水禁 被災協
1970/8/1 瀬戸口千枝 元女学校教諭。 「――あなたとの約束の日には、それこそ千秋の思いで待っていました。あなたは原爆の生きた証人です。その恐ろしさや苦しさを世の中の人々に訴えるのは、あなた方原爆の体験者をおいて外に誰がいるでしょう。思い直して、あなたの苦難の二十五年記を発表してみませんか。私があなたの手となって書きますからね。何か都合の悪いことがあればとく名でもよいのですよ。――」 『長崎の証言 』に収録された被爆体験を話すことをためらう元教え子に呼びかける教師の手紙の一文。長崎の証言運動の初期に、証言の収集に奔走した市民の取り組みの様子と、熱意が伝わってくる。
(『長崎の証言 1970』、「長崎の証言」刊行委員会、1970)
1971/8/1 山本和明 長崎市で被爆。当時17歳。 私は、友人の遺体発掘のために行った学校には、それからは二度と訪れる気持ちになれず、原爆の子とそのものを忘れようと思って、二十六年間、行かなかった。
 しかし、このたび『長崎の証言』という本を読み、われわれ被爆者はもう一度、原点に戻り、証言として残すものは残し、被爆者の援護と救済を、政府に向かって、声を大にして叫ばなくてはいかぬと思った。
『長崎の証言』に収録された一被爆者の言葉。1960年代後半から始まった『長崎の証言』に代表される証言運動によって、重い口を開き、体験を語り出す被爆者がでてきた。辛い体験を思い出したくない、と口を閉ざす被爆者も多い中で、『長崎の証言』は、これまで被爆体験を語ることのなかった被爆者の言葉を掘り起こすきっかけの一つとなり、現在に至るまで多くの被爆者の言葉を「証言」として収録し続けている。
(『長崎の証言 1971』、長崎の証言刊行委員会、1971)

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