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土山秀夫先生を偲んで

RECNA スタッフ

2017年9月2日

 9月2日に逝去された土山秀夫先生に対して、RECNAスタッフから寄せられたメッセージを紹介します。

(センター長・教授 鈴木達治郎)
 2014年にRECNAに赴任して以来、土山先生と直接お話しできた時間はそれほど多くありませんでした。でもお会いした時にはいつも、優しい笑顔と厳しいご指導があった。2016年に秋月平和賞受賞の記念講演では、オバマ政権でさえ核軍縮が思うように進まない点について、「軍、産業、大学の3者が巨大権力を維持しているからだ」と強い言葉で批判されたことが印象に残っています。
 今年の8月20日、病院にお見舞いに伺う機会があり、いつものように優しく、厳しいお言葉をいただいたのが最後となってしまいました。どうか天国からもRECNAを見守り続けてください。先生のご遺志を継いで、「理性と感性」を忘れずに研究活動を続けてまいります。
 

(副センター長・教授 吉田文彦)
 「外務省の担当官と話をしたら、非公式な会話ではあったけど、日本の安全が守れるのならば、必ずしも核抑止に頼らない選択肢だって考えられるって言うんですよ」。土山先生は、ジャーナリストが特ダネをつかんだ時のような、やや高揚した口調でそうおっしゃった。被爆地から「理」を発信するだけに留まらず、外交当局のど真ん中にでも入って行って議論する。非核への構想を熱く説き、共通点を見出して、そこを手がかりに被爆地の視点に引きつけようと試みる。私は、東京の知人に土山先生を紹介する時に、「長崎の加藤周一さん」と呼ばせていただくことにしていた。加藤さんもそうだったが、土山先生もまた行動する知識人でした。もっと学ばせていただきたかったとの思いが尽きません。
 

(副センター長・教授 広瀬訓)
 私が土山先生と初めてお会いしたのは、RECNAの設立準備委員会の時でした。委員会の後の懇親会で、偶然席が近くだったこともあり、いろいろと話をしていた際に、731部隊の話題になり、土山先生が厳しい顔で「私が最初に平和の問題に取り組んだのは、731部隊と生物兵器のことなんですよ」と言われたのが印象に残っています。
 また「長崎医科大にも積極的に戦争に協力した教員だっていた。それもきちんと総括しておかなくては」とも言われていました。核兵器の問題だけでなく、本当に戦争そのものを否定し、「平和」を求める方だったと思います。
 

(准教授 中村桂子)
 土山先生の書かれる文字が好きでした。何とも味のある、角の取れた、まろやかで力強い文字が、原稿用紙の升目を一つずつ埋めるようにきちんと並んでいました。それは、どんなときにもやさしく温かく、誰にでも分け隔てなく接してくださった、先生のお人柄そのものでした。丁寧に折りたたまれて郵送されてくる手書きのエッセイ原稿をパソコンに入力しながら、へぇーと思ったり、胸を打たれたり、うんうんとうなずいたり、にやりとしたり・・・。新人時代の私のひそやかな楽しみであり、先生の思いに触れる時間でした。書きたいことはたくさんあるのに、そんな小さなエピソードばかりが思い出されます。一人の人間として核兵器廃絶という大きな課題にどう立ち向かうべきか、被爆地から何を発信すべきか――。これらを教えてくださった土山先生にはただただ感謝しかありません。
 

(顧問 黒澤満)
 土山先生とは、伊藤一長長崎市長の下に設置された平和推進会議のメンバーとして初めてお会いし、厳しくて近寄りがたい存在であったと記憶しています。その後先生との長いお付き合いの中で核廃絶につき多くのことを学ばせていただきました。
 

(客員教授 森永玲)
 たぶん土山先生が80歳ぐらいの頃だと思います。ある会合取材の帰り道、出席者だった土山先生に、今から浜口で飲みますけど一緒にどうですかと誘われました。
寿司屋に入り、お酒をごちそうになりました。つまみは頼まなかったと思います。「核兵器廃絶運動の理論的支柱」が、平日の明るい時間に徳利をおかわりしている姿が愉快でした。
先生の著書「世相放談 マイクを通してこんにちは」(長崎文献社)に収録された「ちょっと一杯」という随筆によれば、生まれつき「アルデヒド脱水素酵素」を持っているかどうかで、お酒に強いか弱いかが決まるそうです。
 あの浜口のお店でも、先生はそれを力説し「私は年寄りだけど分解酵素を持っているから平気なんです。昼間でも大丈夫」とピンク色のお顔でにこにこしていました。
 あれほどの業績を残し、尊敬を集めた方なのに同時に、いつも気さくで、ユーモアたっぷりのお人柄が魅力的でした。楽しく、大切な思い出です。
 

(客員教授 太田昌克)
 土山先生は私の記者人生における最大の恩人のお一人です。いつも先生のご発言やご論考を通じ、自分のものの見方や思考を内省してきました。そうすることで、少しでも深く重層的にものを見詰め、考える作業を助けていただきました。何より、先生のご存在そのものが、私自身が今なおもがきながら、つむぎ続ける未熟な哲学と思想の鑢(やすり)でした。
 最初にお会いしたのは2007年の夏。ワシントンから帰ったばかりの私の拙い仕事に温かいご評価をいただくと同時に、被爆地で非核の「根」と「芽」をいかに育んでおられるか、ご教授を賜りました。日本酒を酌み交わしながらの議論が、まるで昨日のことのようです。
 「反核の巨星」である先生のご恩に少しでも報いていく―。これが私の先生と被爆地に対するご恩返しだと思っております。
 

(客員研究員 桐谷多恵子)
 被爆地長崎の理論的支柱と呼ばれる土山先生ですが、広島にも先生の言葉を求める市民が多くいました。私が広島市立大学に勤めていた頃、担当する市民講座に先生を講師としてお招きしました。市民約100名が参加された中、先生のご講演を聞きながら、涙を流している人もいました。先生の言葉には、明解な理論と共に、人の心を動かす力がありました。その「理論と感性」を兼ね備えた先生を多くの人が慕ってきました。私もその一人です。多くの被爆者への聞き取り作業から、私なりに被爆の実相をインプットしてきたつもりですが、体験者ではない自分がアウトプットすることの苦しみに押しつぶされそうになっていた時がありました。その折、先生に「非体験者が被爆者の声を伝えるのは、あまりに困難な作業」と悩みを打ち明けました。先生は、「そんなに難しく考えずに、自分の言葉で、自分のやり方で、表現すればいいのですよ」とご指導して下さいました。先生、ありがとうございました。自分の言葉で書いて、伝えてまいります。

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